VE2PBAピエールのこと


VE2PBA Pierre LevesqueはカナダのQuebec州Matane在住のアマチュア無線家です。Mataneは、セントローレンス川の右岸、ガスぺー半島の途中くらいに位置しているようです。彼とは、1997年11月から2002年01月までの間に、確認できるだけで10回の交信をしています。これだけの交信をすることになったいきさつを少しご紹介しましょう。

彼とは、97年11月に14メガSSBで最初に交信しました。日本の朝のパスでしたが、北米東部が良好にオープンした日だったと記憶しています。この時、彼から、「日本とはあまり交信したことがない。ぜひ、ダイレクトでQSLを送ってくれ」と頼まれました。私の信号はJAの中では強い方ではありませんから、なぜ私にこんな話をしたのかは結局よく分からなかったのですが、せっかくの依頼でしたので、簡単な手紙とシャックの写真などを沿えてダイレクトでQSLを送りました。

その後、しばらく彼との交信はなかったのですが、98年6月になり、夜のパスで再び交信することができました。この時、彼の方から、「前回手紙と写真を受け取っている。また手紙を書くから、是非返事が欲しい」と言ってきましたので、こちらからも手紙を書くよと答えました。その後、彼から写真を同封した手紙が届きました。私からも、シャックやローカルの風景などの写真などを同封して手紙を返送しました。ところが、彼の手紙には、次の週末、13Zに14.163で交信を再度試みたいので是非出てきてくれ、コンディションの関係でダメな場合は、翌週に再トライしてくれ、と書いてあったのです。彼はこの時点ではまだemailが使えませんでしたので、手紙に書いてよこしたのでした。

私の設備は決して強力な電波を出せるものではありませんので、何度かめのトライでようやくスケジュール交信に成功しました。やれやれと思ったところ、来週また、と言われてしまいました。断るのも悪いと思い、ほぼ毎週トライすることになってしまったわけです。さすがに、毎週トライとなると、こちらも時間的束縛がうっとうしくなった時もありました。結構おっくうになってきたりはしたのですが、結局、その年の10月になり、夜のパスがなくなるまでスケジュールを続ける結果となりました。

毎週スケジュールを決めて交信をトライするとなると、電離層の状況によっては、大変良く入感する時もあれば、全く聞こえない時もありました。ある時などは、私も彼も予定の時刻に予定の周波数でお互いを呼び合っていたようなのですが、お互いに相手が全く聞こえず、中間地点になるアメリカの局が、「あれ、お宅が呼んでいる局もお宅のことを呼んでいるが、聞こえないのか?」と言ってきたこともありました。交信の方は、その後、夜のパスがなくなり朝のパスの季節になりましたが、朝のパスでのスケジュールは行わず、結局その後、このスケジュール交信は立ち消えになりました。

これだけ何度も交信をすると、話をすることがなくなりますが、私は子供の剣道の試合の話とか、庭いじりの様子とか、ハイキングに行った話とかをしていました。彼も、家族の話や仕事の話などをしてくれましたが、彼は元々フランス語を話す人で、英語は仕事で使う程度、という生活のようですから、彼の英語を十分理解するのは容易ではなかったのは事実です。でも、彼の人柄もあり、会話を楽しめたのも事実です。そうでなければこれほど多くの交信はしなかったでしょう。

彼は、私と同じ78年に仕事を始めています。たぶん年齢的にもほぼ同じでしょう。77年からSWLを始め、87年にハムになったとのことです。仕事は電気関係の技師だそうですが、最近は管理業務が多いのであまりうれしくないというようなことを言っていました。

彼からは、結局、記憶にあるだけで3回手紙が送られてきました。私も同じ回数くらいの返事を出したと記憶しています。その後、彼もemailが使えるようになり、以後、やりとりはemailとなりました。

彼との最後の交信は、私が東京に転勤した後の2002年1月で、emailで連絡を取り合って21メガSSBで交信しました。私が転勤で岩手に戻ってからは彼とは交信していませんが、今も元気に無線を楽しんでいることと思います。


初めて交信した頃のアンテナ(98年初頭の写真とのこと)。この頃は10m高だったので、日本とはめったに交信できなかったそうです。


20m高になった後のアンテナ。98年の春に市の許可をもらって、タワーを20mにかさ上げしたそうです。これで日本とも比較的簡単に交信できるようになったとのことでした。


98年春頃のVE2PBAピエール。写真には写っていませんが、1kWの自作リニアアンプも持っています。

パドルも見えますが、CWはやらないそうで、phoneだけとのことです。


ピエールから送られてきた手紙や写真。記憶にあるだけで、3回も手紙を送ってくれました。ただし、手書きのため、判読が容易でない部分が沢山あり、読み通すのに骨が折れました。


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